新年スペシャル(2) 言語とコミュニケーション [ゲーム分析]
新年ですが、まだマニアックな話を書きましょう。
言語の話です。
かなり長いですし、以前に書いたことのくりかえしになっているところもあります。興味のある人だけ、どうぞ。
ゲームには、言語の差が、大きく影響します。
言語とは「音声」なのか? それとも「文字」なのか?
そんな些細な、しかし大きな認識の違いが、ゲームに大きな影響を与えるんですね。
たとえば、アルファベット文化圏の人は、オンラインゲームの「ひとつの最終形」として
音声で会話しながら交流すること
をイメージします。彼らは、文字をやりとりするのではなく、直接しゃべりながら会話できるほうが、いいに決まっているじゃないか! と考えてる。
なぜなら、たとえば「英語」ってのは、もともと「音声」だからです。
ようするに、アルファベットってのは表音文字なんですよ。音声の書き方・読み方を記したものにすぎません。
だから、彼らにとって、詩ってのは「口にするもの」です。だから吟遊詩人という職業(なのか?)もあるわけです。
でも、たとえば日本語は違うよね。
日本語ってのは表意文字だからね。漢字があるから。だから、詩ってのは「詠むもの」になる。最初に、まずは「文字にして」いるわけですよ。
音声なのか、文字なのか。
どちらを優先するか? という大きな差異が、ゲームに影響します。
たとえば、海外のゲームって、コマンドがアイコンになっているものが多い。行動が「絵」に置き換えられているわけです。
でも日本のゲームって、コマンド表記は「たたかう」「まほう」といった言葉になっている。言葉そのものが「表意文字」だから、わざわざ絵に置き換える必要がないのですね。
さらに例をあげましょう。
日本のバラエティー番組って、芸人がボケたときとか、ナレーションを加えるときとか、画面下にテロップが流れるでしょ?
そっちのほうが、よりスムーズに情報を受け取れるからから、いろいろな番組が、その手法が使われているのですね。
でも、これ、アルファベット文化圏の人が見ると、なにがなんだかわからないんだよね。
「文字で読むより、セリフを聞いたほうが楽に決まってる」のに、なんでわざわざ文字で表記するなんていう、見る側の負担になるようなことをするんだと感じるわけね。
あと、日本人は、英語が読めるけど、しゃべれないという人がいますよね。
これも、海外の人からすると、よく理解できない状況だったりします。
彼らにしてみると、「しゃべれるけど、読み書きできない」人は山ほどいても、その逆は、ほとんどいないから。
なぜなら、アルファベット文化圏の人にとっは、「言語ってのは、しゃべるもの」だからです。音声こそが言語の正体なんですよ。
こういった文化差を、どうやって埋めていくか?
ってのが、ゲームを作る上で、いつもつきまとう大事なポイントになってるんだと思います。
ここを、ちゃんと処理できたゲームが、全世界でヒットするスタートラインに立つんだろうなぁと。
たとえば、「ゼルダ」が上手いなぁと思うのは、そこに架空の言語を登場させていることですよね。そこに「仕草」と「最小限の言語」だけを足して、それで物語を進めていきます。
だから。
言語ってのは音声だ! と考える人は、「言語が架空だから、補助するための表記があるんだ」という形で納得できるし。
言語ってのは文字だ! と考える人は、「文字表記があって、そこに“動く挿絵”のようにして、架空言語をしゃべるキャラが描かれるんだ」という形で納得する。
どちらにも納得できるような形で、「ゲーム内の言語表現」を処理しているんだよね。うまいよなぁ。
でもって、うまいこと行動をアイコン化してる。「ブーメラン」だったり「ガラスの瓶」みたいにして、アイコンを選ぶという形にしている。この世界は架空言語で表現される世界なんだから、文字を使わないよ――というエクスキューズの上で、アイコン化することを正当化しているといいますか。
(だから、ここは架空言語の世界だよ! と印象づける意味もあって、たぶんオープニングから架空の文字が表示されたりするんだよね)
こうして「架空言語を音声化する」ってのは、うまい解決法のひとつですよね。他にも「どうぶつの森」などの、世界的ヒットゲームに採用されてますね。
今後も、いろいろな発明によって、言語の違いを埋める仕組みが作られていくんでしょう。
とりわけ、これからはオンラインゲームが、さらに広まっていきますからね。
なんらかの発明がないと、「あらゆる文化圏の人が、ほぼノーハンデで交流できる」ような、オンラインゲームの理想像が作れない。
これからは、そんな基本フォーマットを作り上げたところが、オンラインゲーム覇者になるのかもしれませんね。
なんてことを書いていると。
いやいや。オンラインで遊びたいなら、英語ぐらいおぼえりゃいいじゃねーか!
みたいな声があがったりするんだろうけど、えーと、ハッキリいいまして、その提案は「お断り」でございます。
遊びのために、なんで、わざわざ言語をおぼえるなんていう労力を強いられにゃならんのだ。
人間が仕組みに合わせてどうする。仕組みが人間に合わせるよう進化すべきです。というか、コンピュータって、そのための道具だったりするわけで。
(http://twitter.com/noyasuyukio もどうぞ)
言語の話です。
かなり長いですし、以前に書いたことのくりかえしになっているところもあります。興味のある人だけ、どうぞ。
ゲームには、言語の差が、大きく影響します。
言語とは「音声」なのか? それとも「文字」なのか?
そんな些細な、しかし大きな認識の違いが、ゲームに大きな影響を与えるんですね。
たとえば、アルファベット文化圏の人は、オンラインゲームの「ひとつの最終形」として
音声で会話しながら交流すること
をイメージします。彼らは、文字をやりとりするのではなく、直接しゃべりながら会話できるほうが、いいに決まっているじゃないか! と考えてる。
なぜなら、たとえば「英語」ってのは、もともと「音声」だからです。
ようするに、アルファベットってのは表音文字なんですよ。音声の書き方・読み方を記したものにすぎません。
だから、彼らにとって、詩ってのは「口にするもの」です。だから吟遊詩人という職業(なのか?)もあるわけです。
でも、たとえば日本語は違うよね。
日本語ってのは表意文字だからね。漢字があるから。だから、詩ってのは「詠むもの」になる。最初に、まずは「文字にして」いるわけですよ。
音声なのか、文字なのか。
どちらを優先するか? という大きな差異が、ゲームに影響します。
たとえば、海外のゲームって、コマンドがアイコンになっているものが多い。行動が「絵」に置き換えられているわけです。
でも日本のゲームって、コマンド表記は「たたかう」「まほう」といった言葉になっている。言葉そのものが「表意文字」だから、わざわざ絵に置き換える必要がないのですね。
さらに例をあげましょう。
日本のバラエティー番組って、芸人がボケたときとか、ナレーションを加えるときとか、画面下にテロップが流れるでしょ?
そっちのほうが、よりスムーズに情報を受け取れるからから、いろいろな番組が、その手法が使われているのですね。
でも、これ、アルファベット文化圏の人が見ると、なにがなんだかわからないんだよね。
「文字で読むより、セリフを聞いたほうが楽に決まってる」のに、なんでわざわざ文字で表記するなんていう、見る側の負担になるようなことをするんだと感じるわけね。
あと、日本人は、英語が読めるけど、しゃべれないという人がいますよね。
これも、海外の人からすると、よく理解できない状況だったりします。
彼らにしてみると、「しゃべれるけど、読み書きできない」人は山ほどいても、その逆は、ほとんどいないから。
なぜなら、アルファベット文化圏の人にとっは、「言語ってのは、しゃべるもの」だからです。音声こそが言語の正体なんですよ。
こういった文化差を、どうやって埋めていくか?
ってのが、ゲームを作る上で、いつもつきまとう大事なポイントになってるんだと思います。
ここを、ちゃんと処理できたゲームが、全世界でヒットするスタートラインに立つんだろうなぁと。
たとえば、「ゼルダ」が上手いなぁと思うのは、そこに架空の言語を登場させていることですよね。そこに「仕草」と「最小限の言語」だけを足して、それで物語を進めていきます。
だから。
言語ってのは音声だ! と考える人は、「言語が架空だから、補助するための表記があるんだ」という形で納得できるし。
言語ってのは文字だ! と考える人は、「文字表記があって、そこに“動く挿絵”のようにして、架空言語をしゃべるキャラが描かれるんだ」という形で納得する。
どちらにも納得できるような形で、「ゲーム内の言語表現」を処理しているんだよね。うまいよなぁ。
でもって、うまいこと行動をアイコン化してる。「ブーメラン」だったり「ガラスの瓶」みたいにして、アイコンを選ぶという形にしている。この世界は架空言語で表現される世界なんだから、文字を使わないよ――というエクスキューズの上で、アイコン化することを正当化しているといいますか。
(だから、ここは架空言語の世界だよ! と印象づける意味もあって、たぶんオープニングから架空の文字が表示されたりするんだよね)
こうして「架空言語を音声化する」ってのは、うまい解決法のひとつですよね。他にも「どうぶつの森」などの、世界的ヒットゲームに採用されてますね。
今後も、いろいろな発明によって、言語の違いを埋める仕組みが作られていくんでしょう。
とりわけ、これからはオンラインゲームが、さらに広まっていきますからね。
なんらかの発明がないと、「あらゆる文化圏の人が、ほぼノーハンデで交流できる」ような、オンラインゲームの理想像が作れない。
これからは、そんな基本フォーマットを作り上げたところが、オンラインゲーム覇者になるのかもしれませんね。
なんてことを書いていると。
いやいや。オンラインで遊びたいなら、英語ぐらいおぼえりゃいいじゃねーか!
みたいな声があがったりするんだろうけど、えーと、ハッキリいいまして、その提案は「お断り」でございます。
遊びのために、なんで、わざわざ言語をおぼえるなんていう労力を強いられにゃならんのだ。
人間が仕組みに合わせてどうする。仕組みが人間に合わせるよう進化すべきです。というか、コンピュータって、そのための道具だったりするわけで。
(http://twitter.com/noyasuyukio もどうぞ)
2011-01-07 00:00
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