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テレビゲームと感情(1) [ゲーム分析]

 アジアカップが面白いなぁ。

 次は準々決勝。満員の観客の声援を背にした開催国カタールと、優勝候補筆頭(ブックメーカーの倍率ナンバーワン)の日本が激突するわけで、カタール国民は猛烈にアツくなるでしょう。

 うん。こういった「感情のぶつかり合い」こそが、サッカーの国際大会の醍醐味でございます。ほんと、スタジアムには狂気のようなものが渦巻くんですよね。

(野安は前回大会で、開催国ベトナム 対 日本の試合を現地観戦してたけど、やっぱ抜群に面白かったです)

 スポーツ観戦の楽しさってのは、結局のところ、そこにある。感情が渦巻くライブ空間ってのは、やはり極上のエンタテインメントなんですね。



 というわけで、ここからはテレビゲームの話になりますが。

 ゲームがオンライン化したときに、そこに「感情が渦巻く」ような環境を構築することが、やはり究極の課題なんだろうな、と野安は考えます。

 事実、現実のオンライン環境ってのは、確実に、そっちの方向へと進化し続けているんです。



 さて。

 根本的なところに立ち戻りましょう。そもそも「感情」ってのは何でしょう?

 脳科学的あるいは医学的にいえば、それは脳内で起きている化学反応なのでしょうが、そういったことは無視して、まずは、この有名な会話をもとに考えてみましょう。



荘子「魚がゆうゆうと泳いでいる。あれが魚の楽しみだ」
恵子「おやおや。君は魚でもないのに、なんで魚の気持ちがわかるんだい?」

 教科書で読んだことがある人もいるでしょう。荘子の「知楽魚」ですね。かなり噛み砕いた会話文にしてあります。この話は、以下のように続きます。

荘子「君は僕ではないのに、なんで僕が魚の気持ちがわからない、ということがわかるんだ?」
恵子「僕は君ではない。だから君が魚の気持ちがわかるかどうか、わからない。そして、君も魚ではないのだから、魚の気持ちはわからないはずだ」

 やるなぁ恵子。いい切り返しです。しかし、荘子はさらに複雑なことを言って、相手を煙に巻いてみせます。

荘子「最初から考えてみよう。最初に君は、“僕には魚の気持ちがわからないのでは?”と言ったのだから、つまり、わたしが魚の気持ちがわかるかどうかを知っていたのだろう? しかるに、僕だって魚じゃないけれど、魚の楽しみは知っていたのだよ」



 うん。何度読み返しても、恵子の言っていることのほうが筋が通っているような気がします。荘子の発言は、なんか屁理屈っぽく聴こえます(笑)。

 だけど、それでもなお、荘子のほうが正しいような気がするところが、この逸話のポイントですよね。(だから逸話として書き残されているわけですが)



 僕は君ではないから、君のことはわからない。

 と、まっとうな理屈を押し出す恵子より、

 そんなことはないよ。僕は、自分ではない誰かの感情も、ちゃんと感じとれるんだ(そう信じているんだ)。

 と主張する荘子のほうが、なんというか、腑に落ちるんですよね。荘子のいうとおり、たしかに恵子は「荘子の感情を感じ取ったからこそ、質問を切り出している」わけですし。



 身近な例に置き換えてみると、さらに理解しやすくなる。

 人間は、ともに暮らしている「ペットの気持ち」がわかるでしょ?

 そんなときに、「あんた犬じゃないんだから、犬の気持ちなんかわかるはずないじゃん!」と言われても、聞く耳は持たないわけですよ。

 ちゃんとわかるんだよ!
 え? どうしてかって?
 そんなこと知らねぇよ。わかるもんは、わかるんだ!

 と言い返してオシマイ、っちゅう話です。これを理路整然と言い返そうとすると、荘子のようになるわけです。



 これが「感情」の面白いところ。

 わたしたちは、自分ではない誰かの「感情」を、感じとることができる。

 それは理屈ではない。みんな「感じとれる」と信じている。

 だから、コミュニケーションというのは、結局のところ、それぞれの「感情」を把握し合う行為だ、と言い換えてもいいんですよ。その行為こそが楽しいんです。そして、たくさんの「感情」が発せられる空間が作られると、それは素晴らしいエンタテインメントとして成立するのですね。



 オンライン化が進んで、ネット上でコミュニケーションをとれるようになりました。

 だから、そこで「感情」のやり取りが行われるように、システムが、少しずつ進化しているんです。

(つづきます)


http://twitter.com/noyasuyukio もどうぞ)

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