ボーカロイドの熱狂は、まだ始まったばかり(2) [箸休め]
ボーカロイドで曲を作る、という遊びは、まだまだ始まったばかりであり、本格化するのは1~2年後でしょう。その頃には、日本以外の国でも、多くの人がボーカロイドで曲を作り、それを好んで聴く人が出てくるのだろうと予想しています。
というのが、前回のブログのあらすじです。
今回は、じゃあ日本で誕生し、一気に花開いたボーカロイド文化ってのは、日本で花開いたからこその面白い現象が起きてるよね――ということを解説してみましょう。
一例を、あげましょう。
「調教」という言葉があります。
これは、ボーカロイドの歌声を「思いのままに調整する」という意味で使用される言葉です。
面白いのは、ここに「調教」という、本来ならば「ペットなどの生き物をしつける」という意味を持つ言葉が使われていることです。(人間に使う場合は、そこに性的な意味も込められますが、それについての考察は後まわしにします)
この「調教」という言葉が流布し、みんなが普通に使用しているというのは、なんとも興味深いところです。それって、みんなが「聞き分けのない子に、言うことを聞かせている」というニュアンスを共有してるってことですからね。
どんなに愛着があっても、マシンに対して「調教」することはないでしょ? 「オレのバイク、よく走るように調教したよ」とか「オレのオーディオ、いい音が鳴るように調教したよ」とは、あまり言わないわけです。
何度も言いますが、「調教」ってのは、生き物に対して使用される言葉ですからね。
つまり「調教」という言葉が一般化したということは、曲を作っている側も、聴いている側も、ボーカロイドという存在に対し、それを「あたかも、本当に生きているかのように仮定」した上でのみ成立する用語を使って会話するようになっている、ということなんですよね。
これ、たぶん、キリスト教文化圏の人には、ちょっと理解してもらえないニュアンスだと思います。
そこにこそ、日本で花開いたボーカロイド文化の、面白さがあったりするんですよね。それは、愛好者たちが、虚構の存在に「命」があるかのように振る舞い、コミュニケートするという文化です。
人間に対して「調教」という言葉を使ったときは、そこに性的なニュアンス、背徳的なニュアンスが出てきます。
だから、この言葉を使うのを嫌がる人もいます。そのような人たちは、かわりに「調声」という語句を使ったりします。
ちなみに、野安は、ふつうに「調教」という言葉を使います。そこに込められた背徳感みたいなものが、むしろピッタリだなぁと思ってるから。
(野安はボーカロイドで曲を作っていて、いわゆる「P名」も持ってます。いつかマイリスト数を300に! を現時点での目標にしている、底辺は脱却できたけど、それ以上のブレイクができないなぁ……みたいなレベルでございます)
いざボーカロイドで曲を作ると、これって、たしかに背徳的だよなぁと思いますもん。だって、これって「人間の歌声」を切り貼りして、自分の思いのままに「歌わせる」という行為ですもん。
MIDIデータをいじって、たとえば「ギターの音色を、本当に弾いているかのように調整」しても、そこに背徳感はありません。
でも、生の歌声のデータを切り貼りすると、なんか背徳感があるんですよ。それは、極論すれば、たとえば「残虐な歌詞を、嬉々とした感情を込めて歌わせる」といった、いかがわしい方向への調整をすることもできるからでしょう。
野安は、そういう詞は書かないけど、それでも「本人の意思とは関係なく、こちらが思っている言葉を、彼女たちに歌わせている」という意味においては同じことをしているわけで、それって、やっぱり背徳的な行為だよなぁ、と思ってます。
でね。
日本では、このように、ボーカロイドを「人間としてとらえる」という感覚のもと、ボーカロイドが文化として受け入れられたわけです。彼女たちに命があるかのように、人格があるかのように、みんなでロールプレイしている、みたいな感じになっているのね。
ボーカロイドが登場したとき、日本では、そういう化学反応が起きたんです。
けれど、海外では、違った感覚をもって受け入れられることになるんだろうな、と思ってます。そこでは、どんな科学反応が起きるのか? ちょっと興味深いところだよなぁ、と思っている次第です。
そうそう。日本では、初音ミクが一番人気だけど、そうじゃないボーカロイドが、より愛されるのかもしれません。
初音ミクって「透明感が強烈」ですからね。「存在してるけど、本当は存在していないのかも……」といった、虚構と現実の間の、きわめて絶妙なバランスの上に立っているキャラクターともいえます。
それが初音ミクの人気を支える理由のひとつだったりするんだけど、これは国によっては理解しにくい魅力なんじゃないかな、と思ったりするんですよ。
たとえば「鏡音リン・レン」や「巡音ルカ」といったボーカロイドのほうが、人間の肉声に近くて、このボーカル、本当に実在しているかも? といった感覚が強い声なんですよね。キリスト教文化圏では、こっちの声の方が好まれるんじゃないかな、と思ったりもしています。
まあ、いずれにしても、ボーカロイドという遊びは、世界に広がっていくでしょう。
いずれ、そこから派生した商品(CDなのか、ゲームなのか、グッズなのかは不明ですが)の中から、ミリオンセラーが出てくると思うよ。優料なものが、全世界トータルで100万個売れる、ということが発生すると思います。
そこまで行ったとき、このムーブメントの第二ステップは完了した、といえるんじゃないかなぁ。そんなに遠い未来の話ではないだろうな、と予測しています。
(http://twitter.com/noyasuyukio もどうぞ)
というのが、前回のブログのあらすじです。
今回は、じゃあ日本で誕生し、一気に花開いたボーカロイド文化ってのは、日本で花開いたからこその面白い現象が起きてるよね――ということを解説してみましょう。
一例を、あげましょう。
「調教」という言葉があります。
これは、ボーカロイドの歌声を「思いのままに調整する」という意味で使用される言葉です。
面白いのは、ここに「調教」という、本来ならば「ペットなどの生き物をしつける」という意味を持つ言葉が使われていることです。(人間に使う場合は、そこに性的な意味も込められますが、それについての考察は後まわしにします)
この「調教」という言葉が流布し、みんなが普通に使用しているというのは、なんとも興味深いところです。それって、みんなが「聞き分けのない子に、言うことを聞かせている」というニュアンスを共有してるってことですからね。
どんなに愛着があっても、マシンに対して「調教」することはないでしょ? 「オレのバイク、よく走るように調教したよ」とか「オレのオーディオ、いい音が鳴るように調教したよ」とは、あまり言わないわけです。
何度も言いますが、「調教」ってのは、生き物に対して使用される言葉ですからね。
つまり「調教」という言葉が一般化したということは、曲を作っている側も、聴いている側も、ボーカロイドという存在に対し、それを「あたかも、本当に生きているかのように仮定」した上でのみ成立する用語を使って会話するようになっている、ということなんですよね。
これ、たぶん、キリスト教文化圏の人には、ちょっと理解してもらえないニュアンスだと思います。
そこにこそ、日本で花開いたボーカロイド文化の、面白さがあったりするんですよね。それは、愛好者たちが、虚構の存在に「命」があるかのように振る舞い、コミュニケートするという文化です。
人間に対して「調教」という言葉を使ったときは、そこに性的なニュアンス、背徳的なニュアンスが出てきます。
だから、この言葉を使うのを嫌がる人もいます。そのような人たちは、かわりに「調声」という語句を使ったりします。
ちなみに、野安は、ふつうに「調教」という言葉を使います。そこに込められた背徳感みたいなものが、むしろピッタリだなぁと思ってるから。
(野安はボーカロイドで曲を作っていて、いわゆる「P名」も持ってます。いつかマイリスト数を300に! を現時点での目標にしている、底辺は脱却できたけど、それ以上のブレイクができないなぁ……みたいなレベルでございます)
いざボーカロイドで曲を作ると、これって、たしかに背徳的だよなぁと思いますもん。だって、これって「人間の歌声」を切り貼りして、自分の思いのままに「歌わせる」という行為ですもん。
MIDIデータをいじって、たとえば「ギターの音色を、本当に弾いているかのように調整」しても、そこに背徳感はありません。
でも、生の歌声のデータを切り貼りすると、なんか背徳感があるんですよ。それは、極論すれば、たとえば「残虐な歌詞を、嬉々とした感情を込めて歌わせる」といった、いかがわしい方向への調整をすることもできるからでしょう。
野安は、そういう詞は書かないけど、それでも「本人の意思とは関係なく、こちらが思っている言葉を、彼女たちに歌わせている」という意味においては同じことをしているわけで、それって、やっぱり背徳的な行為だよなぁ、と思ってます。
でね。
日本では、このように、ボーカロイドを「人間としてとらえる」という感覚のもと、ボーカロイドが文化として受け入れられたわけです。彼女たちに命があるかのように、人格があるかのように、みんなでロールプレイしている、みたいな感じになっているのね。
ボーカロイドが登場したとき、日本では、そういう化学反応が起きたんです。
けれど、海外では、違った感覚をもって受け入れられることになるんだろうな、と思ってます。そこでは、どんな科学反応が起きるのか? ちょっと興味深いところだよなぁ、と思っている次第です。
そうそう。日本では、初音ミクが一番人気だけど、そうじゃないボーカロイドが、より愛されるのかもしれません。
初音ミクって「透明感が強烈」ですからね。「存在してるけど、本当は存在していないのかも……」といった、虚構と現実の間の、きわめて絶妙なバランスの上に立っているキャラクターともいえます。
それが初音ミクの人気を支える理由のひとつだったりするんだけど、これは国によっては理解しにくい魅力なんじゃないかな、と思ったりするんですよ。
たとえば「鏡音リン・レン」や「巡音ルカ」といったボーカロイドのほうが、人間の肉声に近くて、このボーカル、本当に実在しているかも? といった感覚が強い声なんですよね。キリスト教文化圏では、こっちの声の方が好まれるんじゃないかな、と思ったりもしています。
まあ、いずれにしても、ボーカロイドという遊びは、世界に広がっていくでしょう。
いずれ、そこから派生した商品(CDなのか、ゲームなのか、グッズなのかは不明ですが)の中から、ミリオンセラーが出てくると思うよ。優料なものが、全世界トータルで100万個売れる、ということが発生すると思います。
そこまで行ったとき、このムーブメントの第二ステップは完了した、といえるんじゃないかなぁ。そんなに遠い未来の話ではないだろうな、と予測しています。
(http://twitter.com/noyasuyukio もどうぞ)
2010-10-20 00:00
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